我 ら 香 陵 同 窓 生
各界で著名な功績をあげられた同窓生にスポットをあて、ご本人からの寄稿をご紹介させて頂きます。
卒業年度に拘らず、順不同にてご紹介いたします。
星合 孝男さん 鈴木 英夫さん 渡邉 光一郎さん 岸岡 駿一郎さん
星合 孝男 さん
ほしあい たかお
埼玉在住
東北大学大学院理学研究科を修了後、理学博士。
東北大学理学部助教授を経て、国立科学博物館、国立極地研究所で1965年から1987年まで8回にわたり南極観測に参加。
第16次越冬隊、第23次越冬隊、第28次夏隊では隊長として海氷藻の調査等に顕著な功績を挙げられました。
昭和63年には国立極地研究所長に就かれる等、様々な場所でご活躍されております。
長年のご功績に対し平成21年4月瑞宝中綬賞を受賞されております。
現職 国立極地研究所名誉教授 総合研究大学院大学名誉教授。
「鬼の詞」以前のこと
昭和21年(1946)中学3年の或る日、級監(=組担任)の茨木清先生が、「鬼の詞」という文藝同人誌を出しているんだが、君も仲間に入らないか、と誘って下さった。躊躇する私に、「太田も重田も同人だよ。」と続けられた。中学に入った時、同じ組にいた太田と重田の顔を思い浮かべて、思わず「入ります。」と答えてしまった。しかしこれが間違いの元、やがて同人の太田裕雄、重田徳(あつし)、大岡信、山本有幸等元同級生、田代達郎、斎藤健一の現同級生に比べ、自分が如何に文藝面での能力に欠けているかを痛感することになった。これら諸兄の事については、大岡君が“詩への架橋”などで紹介されているので、中学入学の時の同じ組、1年4組の太田、重田両君についての記憶だけを書き残しておきたい。昭和18年4月に入学したものの、病気のため6月には休学してしまったので、極く短い期間の事なのだが、いまだに忘れられない思い出である。
東洋史の時間であった。担当は級監でもあった岡谷 潔先生。先生は黒板に字劃の多い漢字“鼎 ”の一字を書き「誰か読める者。」と問いかける。すると一人が手を挙げた。金岡村岡宮から来ている重田であった。指された彼は即座に「カナエ」と答えた。そして授業は“鼎の軽重”が問われた経緯、“三国の鼎立”へと進んだのであった。それにしても、良くあんなに難しい漢字を知っているものだと、私は唯唯感心するばかりであった。彼とは何となく気が合って、彼が幼年学校へ進んでからも、交流は絶えず私は知的刺激を受けつづけたのであった。
もう1人、妙に気の合う友がいた。太田である。彼の家は千本にあった。浅間さんから南へ歩き、子持川を渡ると川縁の小径があり、右手つまり川上へ行くこと数軒目にあった。ある日彼が大手町の私の家に来た時のことであった。物置小屋の扉、木造の板の上の小さな土の魂を指差して「これはトックリバチという蜂の巣だ。」と言うのである。たしかに、良く見ると徳利の形をしていた。私は彼が何故こんな事を知っているのかと、大いに驚いた。アシナガバチの巣なら誰でも知っていようものなのに、である。
その後彼の家を訪ねる機会があった。そして驚いた。その蔵書の多さにである。彼の豊富な知識の源は、あの書籍だったのかもしれない、と今思う。3年後「鬼の詞」の集りでも、彼の発する言葉は相変らず才気に溢れ、“富士には月見草が良く似合う”であったり、“安吾” “リルケ”であった。
私にとって残念なことは、この2人ともが、割合に若くしてこの世を去ったことである。今でも、彼等が元気ならば、どんな大人、老人になり、南極って本当に面白い所か等と意地の悪い質問をするのではないかと思う。
鈴木 英夫 さん
すずき ひでお
東京商科大学予科在学中、学徒動員で海軍航空隊入隊。特攻隊、橘花部隊士官で終戦を迎える。
東京産業大学(現一橋大学)卒業後、昭和21年兼松株式会社に入社。計3回12年にわたるニューヨーク勤務で辣腕を揮われ、昭和55年に兼松江商株式会社取締役社長に就任された。
その後、東京ロータリークラブ会長はじめ、各方面でのご活躍に対し、オーストリア共和国、ブラジル共和国、マリ共和国から勲章を、昭和58年藍綬褒章、平成4年には勲三等旭日中綬章をそれぞれ受章された。
9年半の社長生活の後、会長、相談役をへて現在兼松株式会社名誉顧問。
「高齢卒業者のつぶやき」
此処に一枚の沼津中学校の古いプリントがある。表題は「第参拾五回卒業生」とあり、そこには旧沼中に五年間を共にした親しい懐しい友の名前が五十音順に並んでいる。私もその中の一人で、昭和十四年、1939年の卒業生である。合計136名。
表中の氏名の下に二重丸◎印がある人、一つ丸○印をつけられている人もある。中には◎○二つの印をつけられている人もあり、説明に依れば、◎印は「武道五ヶ年皆勤者」、○印は「本学年皆勤者」とあり、学生の在学中の実行動を公表している。試みに数えてみると、二つ共印のある学生は42名、全体の約32%である。
更に亦、表の中には、「成績優秀者」8名、と「在学五ヶ年皆勤者」23名も記入されている。そこで既述◎○二印と、成績優等賞と在学五ヶ年皆勤賞の四賞全部を貰った人がいるのかどうかと調べてみると、該当者は僅か2名のみ。その中に何と自分の名前があるではないか!今まで全く知らなかった為に、この原稿につい自慢めいたことを書く破目に至ったことはお詫びしたい。
御殿場からの汽車通学で、無遅刻、無欠勤を通したことは、吾ながら良くやった、と今更ながら感心するが、当時を振り返えると、今は亡きお袋が、優等賞には一切触れずに「よく通えたね」と殊の他喜び誉めてくれたことを懐しく思い出す。 次に話題を変えるが、私の手許に「月刊経営塾」なる古い月刊誌がある。その中に「高校OB人脈総点検」という記事がある。二十年以上も前のものであるが、記者と私との対話形式で進められている。先づ静岡縣名門高校として、沼津中学(現東校)、静岡中学(現高校)、浜松中学(現北高校)の三校が挙げられ話が進む。続いて当校卒業生の中から日本の一流企業のトップ達の名が連らねられ、更に亦業界以外の有名人、芹沢光治良、井上靖、大岡信の三氏が日本ペンクラブ会長として紹介されている。こんな高校、他にはないでしょうと胸を張って対話は終り、それが記事となった。この様な立派な学校のOBの会に私が暫く会長をしていた「東京香陵同窓会」があり、年一回ホテルにおける総会には、四百名前後の出席もあり、ホテル側を「日本一の同窓会ですね」と感心させたことが何回もあった。というのも、素直で純真な沼津気質の男女卒業生だからこそこの様な多勢の楽しい集会が実現するのだろう。
最後に希望とお願いを一つ。
静岡縣は海の幸、山の幸に恵まれた豊かな土地柄で男が育たぬと昔から言われている由、そのせいか、未だに総理大臣一人も出ていない。そこで沼中、東校の諸兄に特にお願いしたいことは、「強国を作る強民」になって欲しいということで、何卒宜敷くお願い申し上げます。以上
沼津中学第三十五回卒業 鈴木 英夫
渡邉 光一郎 さん
わたなべ こういちろう
昭和28年4月16日生まれ。高校時代は剣道部に所属。昭和51年3月 東北大学経済学部卒業、昭和51年4月第一生命保険相互会社入社、調査部長、企画第一部長を経て、平成13年取締役、平成16年 常務取締役、平成20年取締役専務執行役員。平成22年4月 第一生命保険株式会社 代表取締役社長に就任。平成22年7月に生命保険協会長に就任(予定)。
※写真は平成22年4月1日、東京証券取引所における第一生命の新規上場セレモニーのものです。
先輩方を差し置いて大変僭越ではございますが、このような機会をいただきましたこと、沼東OBとして大変に光栄であり、また、お礼申し上げます。
沼東在学中は楽しくも大変に鍛えられた三年間だったと懐かしく思います。
入学直後の応援歌の練習に始まり、盛大な香陵祭、香陵祭の後になって初めて許された下駄履きそのときの誇らしい気持ち、二年生になって岩菅山や白根山といっ た志賀の山々の踏破、地区会での先輩達による厳しくも暖かい指導、仲間と楽しく過ごした下宿生活。 特に剣道部での三年間は「心・技・体」の鍛錬そのものだった
ように思います。入部からの二ヶ月は竹刀を握ることも許されず、さながら軍隊のような基礎鍛錬が続きましたし、夏の合宿ともなれば道着が汗で濡れ雑巾のようになって、道着が乾けば塩が噴くほどでした。その中でまさに戦友のような友もできました。
就職してから困難な局面に遭遇したり、辛い時期に心が折れそうになると、沼東時代の色々な思い出がその時に一緒に過ごした友の顔とともに表れて心を癒してくれました。そして、「嗚呼岳南の花吹雪 春宵の夢醒め果てて・・・」と、ふと口遊んだ応援歌が勇気を与えてくれました。
旧制中学の残り香を感じながら過ごした三年間はまさに “揺籃の庭”であり、私自身の基礎を育んでいただきました。また、企業にとって最も重要な「人間力」につながるものだったのではないかと思っています。恩師の皆様、諸先輩、そして大切な友に心より感謝しています。
さて、私の勤めております第一生命は明治35年創立であり、明治34年開校の沼津東高校と、ともに日露戦争前の時代に歴史への歩みを刻み始めています。それぞれが今に至るまでの激動の波を乗り越えることができたのは、「不易流行」という言葉のとおり、「不易」という変らない伝統を守り、「流行」という新しい時代の変化に対応してきたからではないでしょうか。
また、学校や会社、さらには社会を支えてきた人々の力なくして今に至ることは到底叶いません。「人」こそが何よりも大切な財産であり、第一生命においても「人材」を会社の財産として「人財」と呼んでおります。沼東においても変らない伝統を守りながら新しい時代に対応する「人財」の育成に取り組まれてきたことをOBとし
て誇らしく思っています。
この4月、第一生命は創立以来続けてきました「相互会社」(保険会社特有の会社形態)から「株式会社」に会社形態を転換し、株式を東京証券取引所に上場するという大きな転機を迎えました。こうした大きな転機を迎えたときにこそ、人財育成の重要性を再認識し、力を注いでいきたいと考えています。
そして、沼津東高校におかれましても、自立自尊、自治の精神という先達から受け継いだ素晴らしい伝統を大切にして、社会や地域に貢献する人財を引き続き育成されることを期待しています。
末筆ではございますが、香陵同窓会の皆さまのご健勝と沼津東高校の益々の発展をお祈りして、稿を閉じさせていただきます。
岸岡 駿一郎 さん
きしおか しゅんいちろう
東京大学(法)卒、三菱商事就職、69年三菱インターナショナル。商社時代3事業部 (後法人化)創設に係り、79年ITA創業後8社の創業・経営・コンサル。ITA, Inc.会長、Meiji Corp. 顧問、シカゴ日本商工会議所副会頭、シカゴ日米協会ガバナー,シカゴ赤門会名誉会長など兼務。著書;02年「日本の再生は企業のチャンス」(ペンネーム;シカゴ太郎)、04年「アメリカで欲しがられる人、嫌がられる人」、07年「Yesと言われる日本人」、09年「日本をマネジメントする」寄稿・講演多数。
シカゴにて母校を想う
私は沼津には幼児に終戦の前から高校を卒業するまで住み、その後は東京で大学へ通い、商社に就職、その後5年半でシカゴに来て以来こちらに住んで40年余を過ぎました。
いたずらな田舎の第3中学からの生徒には、東校は優秀な学生にあふれ、本気で勉強するようになった
高校ですが、ボートやマラソン、演劇など、図書館2階の4年生室、またユニークで個性的な先生方にも懐かしい思い出があります。
1兆ドルの外貨をもつ今の皆さんには想像できないかも知れませんが、当時の日本はドルを稼がないと
素材や資源、エネルギーも買えない状態で、シカゴに来たのは貿易戦士という役割でした。当時3万5千円の手取りでしたが、米国では900ドルで360円の時代でしたから30万円をこえる給与でしたが、アパートも7万円、車の月賦が4万5千円、なんでも高かった。しかし9倍も給与を貰ったのですから、申し訳ないと感じて土日も働く猛烈社員でした。
ついた年に円が切り上げられると予想を出したら、一年後には308円になり、日本向けの輸出もやりましたが、その後は米国内での機械類の販売網創りに苦労しました。これらは、後述の拙著の中にも詳しく述べております。
ニクソンショック、原油が3ドル/バレルが11ドルになる第一次オイルショック、ダンピング問題、そして円はどんどん上ってゆき、第二次オイルショックのあと79年には金利が21%になる不況でした。
私は39歳の後半に商社マンを辞めて、独立し輸出入や進出企業の支援をする事業を始めましたが、80年代は不況で始まり、そこへ日本からの会社が押しかけてきて、そのうち7社と一緒に会社を創ったり支援したりで、商社時代の3社(当時は事業部)と合わせ10社以上の経営に関係してきました。印刷業、レンタル業、玩具、建機、いろいろな事業を経験しましたが、同時に何社も抱えて無我夢中でした。
シカゴで中学・高校時代を過ごした一人息子が慶応から関西系の商社に入りましたが、90年代後半に
私の会社に参加してくれ、少し心の余裕が出来ました。そこで日本商工会や日米協会などでも少し地元に恩返しをせねばと考え、実行できるようになりました。
総てが順風万帆というより、『艱難辛苦を与えたまえ』に近かった40年間ですが、昔沼津市内のルーテル協会や龍沢寺の教えもあって、どんな難問もチャレンジでパズルのように受け止められることが楽しく、思わぬ時が立ってしまいました。
そろそろ幕が下りる前に戻り、昔の友人や知人にもお会いできればと楽しみに思い過ごしております。
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